critique

批評めいたことを書いたり書かなかったり。過去のものを拾ったり


ブラジルさんはオンラインでの活動の印象からするときっとナンシー関の男版みたいな容貌のヒトだろうと思っていたのだが意外と好男子風(まちょっと)なヒトで、ちょっと残念だった。ような安心したような。

内原さんは何度かお会いしているのでリアルワールドでは非常に落ち着いて全うなことをあくまでも自分のスタンスから自分の言葉で話す方であることは存じ上げているのであるが、個人的には彼の「一行で言えないことは、そんなに重要じゃないってことだよ」という最近のヒットフレーズが気に入っているので、もっと短いセンテンスでツッコミなのか自虐なのかわからないキャラでしゃべってくれることをひそかに妄想していたのだけれども、残念ながら昨日は割とちゃんと対話していたので、フレーズではなくパラグラフのやり取りになっていることが多かったように思う。つまり重要なことは語られなかったということか。

澁谷さんは弾かないギターを持って壇上に上がったことに象徴されるように記号化された世代の写真家という気がした。悪い言い方をすれば。最後の質疑応答の時に「弾かないんですか」というツッコミが入っていたけれども。写真も悪くない(こういう言い方にしておきます)と思うが非常にちゃんとした写真で、テクニックで見せるタイプではなくて手あかのついた言い方をすれば感覚で撮るタイプの方に近いかとも思う。ただフレームはすぐに決まるほうだと言っていたので写真勘はあるのだろう。俺なんかは求めても求めてもそれがない方なので少々うらやましい。「音楽が重要」という話がちらと出ていたので質疑応答の時に「どういうタイプの音楽が好きでしょう」「具体的に三人のアーティストないしは名を挙げるとすれば誰でしょう」「その三つの存在ないしは音楽を自分なりに説明していただけますか」という質問を考えたのだけど、少々意地悪すぎるし長くなりそうだからやめた。
「ローファイ」という言葉は最近よく聞くけれども、それはまだテクノロジーが発達していない頃にできるだけ「質的に」いいものをつくろうとして削るようにやっていた方法論と、バブルの時期に急激に発達した技術と圧倒的なコスト能力をつぎ込んで作られたものとを両方みて受け入れることを済ませた時代と世代だけに通じる感覚であると俺は思っている。その限定的な解釈においては彼はローファイなヒトであるように思えた。ただおそらくは本人はセンシティブであっけらかんとし過ぎなくらいにセンシティブな人のように思え、なおかつまぁ写真集という体裁をとる以上あるていど仕方ないことなのだけれども造本その他が非常にしっかりとしていて繊細なものであったこともあって、意味や存在感はやや希薄に感じられた。
サイトスペシフィックという言い方が意識の中にあるのかどうかはわからないが、写真自体もその場の雰囲気をとらえているものが多かったように思う。と言うとサイトスペシフィックの意味をわかっていないと突っ込まれそうだけれども、写真とは本来サイトスペシフィックなものをどうしても取り込んでしまいがちである。もちろんそれをより強く現場で感じ取って更に純化して映像としてポータブルな結晶としての写真に収めるのは写真家としての資質であることに間違いないのであるが(その意味でたぶん彼は写真家であるに違いない)、俺自身は「やりたいもの」よりも「そういうようにしかならない」というものが本物だと思っているので、まだ固まっていないかなという気はする。
アーティストの展覧会を観に行ったわけではなくぶっちゃけ写真集の発売販促イベントに行ったわけだけれども、美麗な印刷の写真集よりもむしろプロジェクタのアークの高周波のゆらぎの中で投影される低解像度のビット絵のにじみがむしろ叙情的な彼の写真の雰囲気にはマッチしていたと感じた。ワイエスの絵のようだなと。スクエアフォーマットの装幀とセミマットの仕上げの写真集になってしまうとジョールマイヤヴィッツやエリオットポーターの写真集臭さがどうしても感じられてしまう。古い時代を知っている世代の目で見ると。

いささか意地悪なことばかり書いたけれども、いま言ったようなことをすべて含めておそらくは俺なんかの世代がやるのは勇気が要るのだけれども、それをしれっとやってしまえる、オリジナルを知っているのかどうかは問わないがともかくも織り込み済みだからの一言で片付けるかあるいは気にもしない、そういう世代がもう中核に入っているのだなと感じた。ただまぁ、俺がオリジナルと思っている作家にも必ずそれ以前のオリジナルはいたはずなので何かに似ていることはしかたがない。写真術自体の歴史がさほど古いものではなく、カラー写真の開発普及などの技術的なエポックが現れるたびに表面的な意味での写真表現は常に変わって来たのが今までの「写真」の歴史であり、オリジナルな表現と見なされるためのハードルは石器時代から延々と絵の具をこねて描かれて来た絵画のようなものと較べれば低かったと言えるかもしれない。デジタルカメラの登場が写真を変えるかという類いの議論と同じように。(それはもちろん何かを変えるし変わらない部分もあるから命題の立て方として間違っている)
成熟した技術と、新しい技術、そして近代から受け継がれたものに対する考察や論稿があふれている時代でこれからオリジナルなものを求められているとしたらそれは酷く難儀なものであるように俺などは思うのだけれども、意外と下の世代には、そんなのどうでもいいじゃんみたいな気分が流れていて、それが救いですらあり得るのかも知れないなと、そう思った。

なので内原さんもあまり堅いことをまじめに言わずに一行写真論で対抗してケムにまくがよいと思う。(謎)

Posted on 2008年2月10日, 11:14 AM, by dannna_o,
www.optimagraphics.org/dannna_o/blog/2008/02/6338/

写真家の澁谷征司氏の作品集の出版に際して開催された内原恭彦氏とのトークイベントを観て、翌日に書いた小文。タイトルはえーっと。なぜかこの本は絶版になっているようで検索したけれども見つけられませんでした(謎)

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